華彥鈞 / 阿炳

二胡 華彥鈞 / 阿炳
二胡 華彥鈞 / 阿炳
二胡 華彥鈞 / 阿炳
二胡 華彥鈞 / 阿炳

プロファイル

道教寺院の道士の一人息子として生まれ、幼少の頃より父の教えのもと、様々な楽器を学びました。

 21歳頃に父を亡くし、また、その頃眼病を患います。26歳頃片目を失明。一時は父親の後を継ぎ道教寺院の道士となりますが盲目の道士は歓迎されず、30歳頃寺院を去ります。その後、生計を立てるために芸人になり、35歳で両目を失明、この頃から人々には阿炳と呼ばれるようになりました。

 劉天華が学術的なのに対し、阿炳は民間出の二胡の名手として有名です。
現在残っている彼の作品は、1950年夏に自演録音された6曲のみで、胡琴曲が3曲、「二泉映月」、「聴松」、「寒春風曲」、琵琶曲が3曲「大浪淘砂」、「龍船」、「昭君出塞」です。その年の冬に再度録音の約束をしていましたが、残念ながらそれを果たすことなく亡くなりました。

生平

华彦钧父亲华清和,是江苏无锡洞虚宫道观偏殿雷尊殿的“当家道士”,精于道教音乐,会演奏多种民间乐器。其母为帮佣的寡妇秦嫂,其父与她相好生下阿炳。清光绪十九年(1893年)8月17日,华彦钧出生于雷尊殿旁的一和山房(今阿炳故居)。华彦钧的母亲在其4岁时被同族相迫去世。[1]阿炳被其父送至无锡县东亭镇小泗房巷老家托族人抚养,8岁后被带回道观,并被送入私塾读书,取学名彦钧。因为道家清规,华清和与阿炳以师徒相称,直到1918年,华清和病逝前才向26岁的阿炳坦白其身世。[1]

阿炳十岁开始跟父亲学习二胡、琵琶、三弦和笛子,也开始参与法事。十五六岁已成为无锡道教界一名出色的乐师,加上外表俊美,被当地人称为“小天师”。[2]1918年左右,华清和去世,阿炳继承亡父雷尊殿“当家道士”职位,与族兄轮流主管收入。

约1928年,阿炳因梅毒导致双目失明,无力参与法事工作,遂以街头卖艺为生。46岁与江阴农村寡妇董催弟结婚(现误传为董翠娣和董彩娣)[3]。

1950年12月4日上午9时许[3],华彦钧病逝,终年57岁,无后,葬于无锡西郊璨山一和山房道教墓地。其妻董催弟于1951年3月27日病故。

1979年5月[4]华彦钧墓遭破坏,无锡博物院原地拾骨,并将之存放于博物馆内。1983年葬无锡锡惠公园内惠山东麓、二泉之南锡惠公园春申涧的“华彦钧墓”,现址墓碑为复制品,原物被存放于无锡博物院。

音乐

阿炳在十几岁时,对民歌、戏曲等有强烈兴趣爱好,四处拜访民间艺人为老师。阿炳目盲后,开始流浪卖艺,接触到大量江苏南部的民歌小调、丝竹乐、锣鼓乐、锡剧等民间艺术。

阿炳创作与演奏的器乐曲数量较多,但在困苦的生活中大多已散佚。中华人民共和国成立后,由中央音乐学院教授杨荫浏、曹安和抢录其三首二胡曲和三首琵琶曲,辑有《阿炳曲集》。[5]抢录过程为,1950年8月下旬,当时华彦钧已弃业三年,延至9月2日下午7时30分开始录音,录制《二泉映月》、《听松》、《寒春风曲》三首二胡曲和《大浪淘沙》、《龙船》、《昭君出塞》三首琵琶曲。抢录的乐器是借来的,阿炳练习了三天才录音,当时约定半年以后再录。[6]

阿炳作品《寒春风曲》大约创作于20世纪20年代末,《听松》大约作于20世纪30年代初,《二泉映月》大约创作于20世纪30年代末。《二泉映月》起初没有名字,抢录时才被命名。[7]

1950年9月,中央音乐学院民乐系拟聘华彦钧为教师,因没有华彦钧的医疗费用预算而告吹。华彦钧唯一正式公开演奏,为1950年9月25日于无锡牙医协会成立大会的表演节目。

从1956年10月开始,无锡人民广播电台正式将全天节目结束的“终了曲”改为阿炳的《二泉映月》。[8]文革期间,《二泉映月》被诬为“黑曲”“迷魂曲”,遭受批判。

作品

・《二泉映月》
・《听松》
・《寒春风曲》
・《大浪淘沙》
・《龙船 (琵琶曲)》
・《昭君出塞 (琵琶曲)》

永遠の幻



 20世紀前半に江蘇省無錫で、大道芸人として活躍した音楽家。作品のほとんどは突然の死で失われたが、残された曲はいずれも、中国民族音楽の代表曲になっている。

■33歳で失明、不遇の流浪生活

 生まれは1893年とされる。本名は華彦釣で、阿炳は通り名。父親は道士で、阿炳も幼い頃から道教の修行を積んだ。特に道教音楽の演奏のため笛、胡琴(二胡)、琵琶などを学んだが、すばらしい才能を見せたという。

 33歳で病気のため失明してからは、流浪の生活を送った。大道芸人として金を稼いだが、常に貧困だった。ただし、現地では演奏者として有名な存在だった。

 戦乱が続いたこともあり、現地以外では知られることがなかったが、1950年夏、存在を知った天津市にあった中央音楽学院の教授らが訪問。阿炳に演奏を求めたところ、「少なくとも3年は全く演奏をしていない」として、3日間の練習の後、「二泉映月」(二胡)、「聴松」(同)、「寒春風曲」(同)、「大浪陶沙」(琵琶)、「龍船」(同)、「昭君出塞」の6曲だけを演奏した。

■大量のレパートリーは突然の死で永遠の幻に

 この時、最も得意だったという曲は「練習不足」を理由に演奏されなかったとされる。阿炳は中央音楽学院の教授らに、練習をして納得がいくようになれば、かつて演奏した多くの曲を紹介すると語ったという。

 一方、中央音楽学院では、阿炳の演奏様式と曲目を次の世代に伝えるため、阿炳を教授として招くことを決定。しかし1950年12月4日、阿炳は病死。「膨大にある」とみられていたレパートリーは「幻の曲」となった。